2024年9月深夜、関西国際空港から北京大興国際空港へ向かいました。
太平洋を越え雲間がわずかに白むころ、未来都市のような北京の巨大ターミナルが窓の下に姿を現します。空港を設計したザハ・ハディッドの曲線美は、まだ眠っている眼に柔らかな衝撃を与えました。入国審査を抜けると清潔な地下鉄が静かに発車し、車窓に映る朝焼けが旅の始まりを祝福しているかのようです。
今回は中国の三都市(北京、香港、上海)を訪問した旅日記を記します。
一泊目(北京)

頤和園
午前中は早速郊外へ足を伸ばしました。昆明湖の水面は夏の光を浴びて揺らめき、万寿山から伸びる長廊は色彩豊かな梁と柱が延々と続きます。油絵のような色調の壁画を眺めながら歩くと、時々吹き抜ける湖風が袖口を翻し、清朝皇族の保養地だった歴史を肌で感じることができました。観光客のざわめきすら水墨画の余白のようで、一歩進むごとに景色が絵巻物のように展開していきます。
国家体育場(鳥の巣)
午後、タクシーでオリンピック公園へ。鋼鉄の網が鳥の巣のように絡み合う大胆な構造体は、遠目には荘厳ですが近づくほどに柔らかい曲線を見せてくれます。巨大ながらも足元の水盤に映る様子は繊細で、青空と雲を抱き込みながらゆっくり呼吸しているようでした。スタジアムを一周する間、街路樹越しに聞こえる少年たちのサッカーボールのリズムが、建築の静と動を美しく対比させていました。
雍和宮
線香の香が濃い午後三時。赤い山門をくぐり抜けると薄暗い本堂がゆったりと横たわり、信徒たちの祈りが空へまっすぐ立ち昇ります。満堂のマニ車がカランと鳴るたびに心の澱が揺れ、白檀の煙がわずかに光を屈折させる様子は、時間そのものが仏の手に包まれているような穏やかさでした。
五道営胡同
夕暮れ前、古い胡同へ。細い石畳の路地にリノベーションされたカフェや小さな書店が点在し、自転車のベルがカランと鳴ると猫が影の奥へ走り去ります。老舗茶館の庭に腰かけて龍井茶を啜ると、どこからともなく月餅の甘い香りが漂い、藍色に染まりゆく空と提灯の薄灯りが織りなす静寂が心をほぐしてくれました。
成賢街
日が完全に落ちる頃、路地は灯籠の橙色に染まり、レンガ塀に並ぶ書店の窓から柔らかな光が漏れます。三階建てのレンガ建築が並ぶこの通りは、文化人の息遣いを色濃く残し、背伸びせずとも歴史と文学を味わえる贅沢な空間です。
王府井
夜の王府井大街はネオンと人波が波打ち、屋台の香辛料が鼻孔をくすぐります。糖葫芦が艶やかに照明を反射し、揚げたての羊肉串がジュウと音を立てる横で、パフォーマーの二胡の音色が街をロマンチックに彩ります。
四季民福烤鸭店 王府井灯市口店
一日の仕上げは北京ダック。艶やかに飴色に光る皮が目の前で薄く削がれると、パリッという小気味良い音が響きます。薄餅に葱、胡瓜、甜麺醤とともに包むと、脂の甘みが舌の上で絹のように溶け、初日の疲れを贅沢に癒やしてくれました。
二泊目(北京)

護国寺小吃
夜明け前の北京は肌寒く、蒸気が立つ豆汁の湯気がまるで朝霧のように漂っていました。胡麻の香りが漂う油条を浸して頬張ると、外はカリッと内はもっちり、素朴ながら滋味深い朝食が体を芯から温めてくれます。
天安門広場
広場一面を赤みがかった朝日が覆う時間帯、人民英雄紀念碑を中心に旗がはためく様子は映像で見るよりもはるかに大迫力でした。石畳の奥行きが圧倒的で、歴史の重みが体重に上乗せされるような感覚になります。
毛主席紀念堂
列に並びながら足元の白線を辿っていくと、厳粛な空気が次第に濃くなります。冷たい大理石の壁が音を吸い取るように静まり返り、参拝者の足音のみが響く空間で、歴史的人物との距離の近さに言葉を失いました。
故宮博物院(紫禁城)
午前十時、太和殿の黄色い琉璃瓦が高い空を背景に金色に輝き、木組みの斗拱が織りなす陰影が複雑なレース模様を地面に刻みます。脇に逸れるごとに小さな庭園や回廊が現れ、王朝の迷宮を歩く高揚感に心が躍りました。
景山公園
琉璃瓦の波を背に、万春亭へとゆるやかな斜面を登ります。見下ろす紫禁城は朱と金の海となり、北風が髪を揺らすたびに歴史が呼吸しているようでした。遠く西山の稜線までも一望でき、都市のスケールが掌に収まった気分です。
南鑼鼓巷
午後、古い瓦屋根の胡同に入ると若いアーティストのショップや手作り雑貨の屋台が軒を連ね、伝統とモダンが緩やかに溶け合っています。煎餅果子の香りが漂う路地を歩きながら、自分だけの小さな宝物を探す子どものような気分になりました。
天壇公園
祈年殿の青と紺の釉瓦が澄んだ空に映え、回音壁では観光客が反響を試し合い楽しげな笑い声を響かせていました。檀香のかすかな匂いと深い杉林の香が混じり合い、心の波が静かに凪いでいきます。
前門大街
石畳にレトロな路面電車がガタンと音を立て進むたび、両サイドの西洋風アーチ窓が微かに揺れます。老舗の月餅店から漂う甘い香りが夕方の空腹を刺激し、気づけば手には熱々の胡麻餡月餅。
北京坊
煉瓦造りの洋館とガラス天井が交差する商業エリアは、歴史的景観の中にハイブランドのショールームが共存。テラス席で夜風に吹かれながらクラフトビールを味わうと、旧都が新たな息吹で再生していることを実感します。
王府井大街
再びネオンが瞬く夜の繁華街へ。喧騒の中でも足元の石畳が歴史の層を語りかけ、人々の笑い声がその上に最新の彩りを重ねていきます。深夜まで煌めく看板を背にホテルへ戻る帰路、ハンドバッグの中で揺れるお土産の紙袋が嬉しい重みとして残りました。
三泊目(北京)

万里の長城(八達嶺長城)
朝焼けの清河駅から観光列車に揺られ、山肌を縫う石壁が車窓に現れた瞬間、声にならない歓声が漏れました。長城の階段は想像以上に急で、一歩上がるごとに石灰岩の冷たさと歴史の重みがブーツ越しに伝わってきます。風が峯々をなぞり、遠い地平線へと消えていく姿は「万里」の名に偽りなしでした。
明の十三陵 定陵
松林を抜けると地下宮殿への階段が口を開け、石室の静寂がひんやりと頬を撫でます。玉座を守る石亀や朱塗りの棺床を目にすると、皇帝の永眠を見守るための壮大な建築技術にただ脱帽するばかりでした。
厉家菜
夕食は宮廷料理の名店へ。前菜からデザートまで二十四品の小皿が行進のように運ばれ、ライチ木耳や蟹みそ豆腐など珍しい組み合わせが次々と現れます。淡い塩梅の中に素材の香りが際立つ料理の数々に、かつての皇帝と時を共にした錯覚すら覚えました。
老北京炸酱面大王
夜食には庶民の味を求めて胡同の裏道へ。太めの麺に濃厚な甜麺醤と豚挽き肉、細切り胡瓜を絡めれば香りが鼻腔から脳天まで突き抜けます。昼間の豪華絢爛とは対照的に、素朴な一杯が心を温めてくれました。
四泊目(香港)

北京から香港へ移動
早朝、首都空港から南へ飛び、厚い雲を抜けた先で見えたのは翡翠色の海とビル群が連なるコントラスト。香港国際空港のガラス窓から湿った潮風が入り込み、南国へ来たことを肌で実感します。
スターフェリー
九龍から香港島へ水面を渡る古い緑色のフェリーは、エンジンの低い唸りと波の跳ね返りが心地よい子守唄のよう。ハーバーを斜めに横切るたびに摩天楼の鏡張りが黄金色の夕陽を反射し、船体が光の狭間を泳ぐようでした。
ヴィクトリアハーバー(シンフォニー・オブ・ライツ)
夜八時、岸辺に立ち都市のシルエットが暗転すると、音楽に合わせてビルのレーザーが一斉に天空を切り裂きました。光のアーチが水面に揺れ、香港という都市そのものが壮大なステージと化す瞬間に胸が震えます。
Apple Hostel(重慶大厦)
深夜、カオスと評される重慶大厦の狭いエレベーターを抜けると意外に静かなホステルが現れました。窓の外には点在するネオンが瞬き、疲れた体には安堵のさざ波が広がります。
五泊目(香港)

アベニュー・オブ・スターズ
黎明前のプロムナードにはまだ人影が少なく、ブルース・リー像のシルエットが冬の星座に溶け込む景色を独り占めできました。
金峰靚靚粥麵
市場の喧騒が目覚める頃、腸粉はとろけるように柔らかく、皮蛋瘦肉粥は奥深い旨味を湯気に乗せて広がります。椀を両手で包めば、夜更かしの疲労が一瞬でほどけていきます。
怪獣大廈(モンスターマンション)
コンクリートの峡谷のような集合住宅群は、パステルカラーの外壁が圧倒的な迫力で迫ります。わずかな空を見上げると、四角く切り取られた青がレンズ越しに未来都市のよう。
竺扶大班焼味
昼食には燻香が漂う叉焼とカリカリの皮を纏うローストポーク。ザクッという歯触りと滲み出る肉汁が、香港グルメの底力を改めて感じさせてくれました。
金鳳茶餐廳
午後のティータイム、焼きたてのパイナップルパンの甘いクッキー生地がサクッと割れ、中からしみ出す溶かしバターが口中を豊かに満たします。
Bakehouse
フランス帰りのシェフが焼くエッグタルトは、焦げ目の香ばしさととろけるカスタードが絶妙なバランス。ひとくちで幸せが弾けるとはまさにこのことです。
ミッド・レベルズ・エスカレーター
山腹へ向かう世界一長い屋外エスカレーターに揺られながら、左右のカフェや古書店を覗き込むのは休日の散策そのもの。ビルの隙間から差し込む陽光が都会の峡谷を照らし、坂の街の奥行きを感じました。
文武廟
赤い柱と彫刻が連続する境内に入ると、太い線香が吊られている独特の光景が目を奪います。渦巻き状の線香から落ちる灰が時を刻む砂時計のようで、その静寂が香港の喧騒と不思議に調和していました。
佳佳甜品
滑らかな胡麻糊に浮かぶ白玉の柔らかさは、午後の疲れを溶かす極上の甘味。小さな器に詰まった幸福を匙で何度も掬いました。
上海街 & 新填地街
金物屋が軒を連ねる上海街、ローカルフードの香りが漂う新填地街。それぞれの街角が生活の息吹を感じさせ、観光地とは異なる「香港の日常」を垣間見ることができました。
玉器市場
翡翠のブレスレットから小さな玉佩まで緑の石が乱反射する光景はまるで宝石の海。老舗店主がルーペ越しに石を語る姿は真摯で、値段交渉にもどこか温かみがあります。
登打士街 & スニーカー街
ホログラムが舞う店頭ディスプレイと、限定モデルを求める行列が交錯。スニーカー文化の熱気が夜のアスファルトを震わせていました。
金魚街
ビニール袋に入れられたカラフルな金魚が壁一面に吊るされ、水中で揺れる鰭が光を散らす様子は、生きているランプのよう。街灯の下で水の揺らぎが歩道に反射し、幻想的な通りです。
女人街 & 男人街(廟街夜市)
女性向けファッション雑貨の女人街を抜け、男人街では中古レコードや骨董カメラを物色。喧噪と香辛料の匂いが混ざり合い、真夜中でも眠らない香港のエネルギーを全身で浴びました。
ヴィクトリアピーク(スカイテラス428、太平山獅子亭)
ピークトラムで空に向かって登ると、眼下に広がる夜景は無数のダイヤモンドの洪水。展望台で風を受けながら湾曲したハーバーラインを眺めると、言葉を失うほどの輝きが心を満たします。
興記菜館
熱々の土鍋が運ばれ蓋を開けると、炊きたてご飯の香ばしいお焦げと腸詰の甘みが湯気にのって立ち上ります。醤油を回しかけるジュッという音が食欲を最高潮へ導き、香港最後の夜を完璧に締めくくってくれました。
六泊目(香港・上海)

新香園
香港最後の朝。濃厚なエバミルクを染み込ませたフレンチトーストは表面がカリッと、中はふわり。蛋牛治の牛肉パティは卵と絡み合い、甘辛いソースが滲み出すたびに幸福が更新されました。
香港から上海へ
空港高速鉄道でビクトリアハーバーの景色が後ろへ流れると、次なる巨大都市への期待で胸が躍ります。機窓から黄浦江が蛇行する姿を見たとき、新しい章が開く音が聞こえた気がしました。
リニアモーターカー(上海磁浮列車)
龍陽路駅までのわずか数分、車内ディスプレイが430 km/hを示すたび歓声が上がります。車体が宙に浮く感覚は重力からほんの少し解放されたようで、近未来への加速装置の中にいる気分でした。
外灘観光隧道
カプセルのようなゴンドラに乗り込みトンネルへ入ると、LEDの光が万華鏡のように壁面を染めます。川底を抜ける間に無国籍なBGMが鳴り響き、非日常へトリップする短い旅でした。
上海タワー118階展望台
薄暮の空へ向かい秒速18 mの高速エレベーターで上昇。ガラス床に立つと、足元にジオラマのような高層ビル群と縦横に走るネオンが広がり、上海の巨大さを実感します。
豫園商城
夜、朱塗りの楼閣と金色の提灯が交差し、湖面に映る光が魚の鱗のように揺れます。小籠包の蒸気が漂う路地で一口含めば、薄い皮から肉汁がほとばしり、心にまで温もりが染み込みます。
七泊目(上海)

裕兴记(かにそば)
上海蟹シーズンにはまだ早いものの、濃厚な蟹黄が絡む細麺は香り高く、鼻から抜ける海の余韻が朝を鮮やかに彩ります。
南京東路
歩行者天国のネオンが晨光に溶け出す頃、百貨店のショーウィンドーが一斉に瞬きました。早朝ランナーの靴音が石畳を軽やかに叩き、街が目覚めるリズムを作り出します。
外灘
対岸の浦東には鋼鉄とガラスの尖塔が林立し、こちらのコロニアル建築群と時代を隔てた対話を交わしているよう。黄浦江を行き交う貨物船の汽笛がその会話に低音を添えます。
朱家角
水郷へ向かうバスを降りると、白壁と黒瓦の家屋が運河に沿って連なり、石橋の弧が水面にもう一つの世界を映し出します。手漕ぎ舟がゆっくり進むたび、船頭の歌声が静かな水面で揺れ、都市の喧騒を遠くに感じさせない桃源郷でした。
上海雑技団
夜、劇場の赤い幕が上がると人間離れしたバランス感覚と躍動が次々と披露され、息をするのも忘れるほど。皿回しの回転音や鞭のしなる風圧まで五感で味わい、観客と演者の熱気が共振する瞬間を体験しました。
スターバックス リザーブ ロースタリー上海
世界最大級の店舗では巨大な銅製ロースターが絶え間なく豆を攪拌し、芳醇な香りが店内を満たします。シングルオリジンのコーヒーを味わいながら、焙煎から抽出までの劇場型プレゼンテーションを堪能しました。
八泊目(上海)

上海田子坊
石庫門住宅を改装した路地裏には、アトリエ、雑貨屋、カフェが迷路のように連なります。狭い通りを曲がるたびに現れる壁画やオブジェに目を奪われ、時間を忘れてシャッターを切り続けました。
新天地
赤煉瓦と黒い木枠の窓がクラシックな石庫門建築とガラス張りの近代建築を繋ぎ、過去と未来が違和感なく同居しています。テラスで上海クラフトビールを傾ければ、都市が奏でるジャズのリズムが確かに聞こえてきました。
静安寺
最後に訪れた黄金色の寺院は、周囲の高層ビルを跳ね返すかのように堂々と佇んでいます。香炉から立ち上る煙が高層ビルのガラスに映り込み、信仰と資本が不思議な重層構造を作り上げていました。鐘の音がガラスに反響し、旅の終章を静かに告げました。
ドタバタ中国横断記まとめ
八泊九日の旅は、大陸の雄大さと都市のスピード、伝統の緻密さと人々の息遣いを重ね合わせ、まるで多面体の宝石を覗き込むようでした。北京の古都としての威厳、香港の摩天楼が生み出す高揚、上海が示す未来への加速度。それぞれの都市が異なるリズムで鼓動しながら、私の中で一つの大きな交響曲を編み上げました。旅の記憶は時間とともに色を変え深みを増すでしょう。それでも胡同の煉瓦の手触り、黄浦江の湿った風、夜市のスパイス香だけは、永遠に鮮烈なまま胸の奥で鳴り続けるはずです。